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如水会について

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本会および会館の沿革

本会および会館の沿革

如水会の会名の由来 如水会の名付親が渋沢青淵翁であることは周知の通りであるが、なぜ翁は「如水会」の会名を選ばれたか。大正8年9月29日に行なわれた如水会館開館式の際の翁(当時80歳)の祝辞は、その点を明らかにしているので、ここにその部分を抜すいする。 なお、これは、翌大正9年2月20日、大磯邸において翁の修正を経たものである。

満場の諸君。本会の出来ましたに付いて、其名称の撰定を委員諸君から御委託を受けまして、君子交淡如水と云う礼記に在る文字から採って如水会が宜しくは無いかと申上げまして、即ち今日此如水会開館式を挙げることに相成ったのであります。実は水と云うものは無味淡泊なので俗に水のようだと言って居る。殊に商業界に努力なさる諸君が、唯々淡として水の如しでは、物足らぬように思わるゝ方もあるかも知れぬのであります。如何にも礼記の本文に、君子交淡如水、小人交甘如醴とある、其醴で無く極くサッパリとして如水だとのみ理解すると、如水会は水のようで力も無く味も無いものになりはせぬかとのお疑いは尤もなれども、私が水の如しと命名したのは単に礼記のみに依ったのではないから、茲に水に付いての愚説を申述べて見たいのであります。既に孔子も知者楽水と云うことが論語の雍也篇に在ります。 即ち、知者楽水。仁者楽山。知者動。仁者静。である。同じく論語に、子在川上曰。逝者如斯夫。不舎昼夜。此水だ、洋々滾々として流れて已まぬ、何時までも常住不変であるというので、所謂意味深長なる賞讃の語であります。是等は、前の淡如水と云う位のものでは無かろうと思います。支那人の水に対する説は其辺でありますが、私は明治42年に亜米利加を旅行しまして、イサカ市に於てコロネル大学を参観した時に、総長のホワイトと云う人の司会で午餐の饗応を受けました。此午餐会のホワイト総長の演説が今尚耳に残って忘れませぬが、即ち其水でありました。

勿論学校でございますから酒の用意が無い、酒が無いから殊更水に賞讃の辞を加えたのかも知れませぬけれ共、此老人余り演説は雄弁では無いようでございましたけれ共、所謂立案が実に巧みでありまして、水に対する効能を各方面から述べました。凡て物は水なしに生存が出来るか、発展し得るかと云う事を詳細に例証して、是は植物に付いての水である、是は動物に付いての水であると、頻りに水を褒めた後に今日の珍客に対して此水を以て祝盃と致すのは何と諸君も喜んで下さるであろうと言うたから、会衆が狂するが如くに拍手致しました。ホワイト総長が水を賞讃した言詞は今悉く記憶しませぬけれ共、実に説き得て妙でありました。

私は尚水に付いて二三申添えたい事があります。孟子に、今夫水。搏而躍之。可使過そう。激而行之。可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也。とあって、是は水の本性で無かろうけれ共、水は左様な力を備えて居るものである。人の性の激しく発動する時も左様であると云うて、告子と云う人の性に善不善なしという説を駁する時、水に喩えて人の性を論じたのである。遉がに孟子の雄弁で好く水の性を論じて居ります。如何にも水は或場合には滂沛として金城鉄壁をも破ると云う力がある。水は左様に激する者であるが、又春の日の麗かに風の静なる時はそれこそ平準水の如く聊かの小波も揚らぬで、春和景明。波瀾不驚。上下天光。一碧万頃。と范文正公の岳陽楼記に在る如く洋々として、春先きの長閑なる有様を形容してあります。斯様に水の動静変化を叙し来らば、何ぞただに淡如水と云うに止まるものでは無いと御了解下さるであろう。即ち諸君の経営せらるゝ商業の有様が其通りでありますまいか。限りなく米価が騰貴するは或は水の激して山へ昇るの有様と見ることが出来ます。

又平準に復する時は猶水の本性を其処に現わします。故に商業の経営に付き偶々此水を激させる事もありますが、多くは水をして極めて平和に本性を尽さしめるのが諸君の執るべき処である。果して然らば此如水と云うことは、決して唯々淡泊平易の意味を以て此会館に名づけたので無いと云う事を御了解下すって宜かろうと思うのであります(拍手)。即ち如水と云うは、左様に水が平和にして又変動有る物と云う心持であります。諸君の御事業が左様に平和にして左様に変動あるものとしますれば、無論其激して山に昇り、搏ってそうを越すと云うことは本性で無いから、成るべく平静たらしめたい、即ち春和景明、常に平準を保維して激浪風濤の水たらしめぬように御心掛なさる事を希望しまして、私の此演説を終ります。

(拍手喝采)

如水会

母校に校友の会を創設したのは如水会の前身の高等商業学校学友会であって母校の前身商法講習所開設14年後の明治22年3月19日の設立である。 其9年後の明治31年1月9日に学友会を高等商業学校同窓会と改称(明治35年4月東京高等商業学校同窓会に改めている)更に如水会と改称されて現在に至っている。 如水会の設立は上記同窓会員に依って倶楽部設置の問題と併行して進行し大正3年1月23日同窓会員中の52名集合して如水会発起人会を開いた際、倶楽部建物の竣成を待たないで如水会の看板を掲げることの発言があり、大正3年1月28日倶楽部創立準備委員会合し如水会創立委員選定会を開き全国主要都市の同窓会会員から98名の如水会創立委員を選出、次いで創立委員中から創立常務委員20名、内幹事3名を決定、大正3年11月14日の如水会創立総会で同窓会会員130名出席し成瀬隆蔵氏を座長として定款23条を定め監事5名評議員60名(この日総会の決議により評議員を役員扱に改めたが、昭和38年7月22日文部省認可の改正定款によりさらに役員中より除外した)理事10名を選出可決して茲に如水会が成立したのであって同窓会設立18年後母校創立41年後に相当する。次いで理事の中から5名の常務理事を選出した。

社団法人如水会

大正3年11月14日に決定した如水会定款附帯事項に基いて4年7月2日如水会設立者を選出し設立者連署して農商務省へ東京府を通じて社団法人如水会設立許可を申請し5年6月28日更に文部省へ申請替して大正5年8月10日文部大臣より許可があり法人設立許可証が東京府を経由して8月15日如水会へ到着して居る。 8年4月1日母校内から如水会事務所を如水会館へ移し同年7月17日如水会館で如水会第一回常例午餐会を開催翌大正9年4月24日の第4回如水会通常会員総会で成瀬隆蔵理事を議長として東京高等商業学校同窓会は社団法人如水会と合同する時期及方法を規定した3箇条要項を附議して両会を合同することに全員一致承認可決し次いで合併後の新役員竝に社団法人と成った如水会の新役員を兼ねて理事17名、監事8名、評議員155名を選定した(9年3月末現在の会員数4640名)。この日の決議に基いて同窓会と如水会とが完全に合同一体に成ったのは如水会会館竣成後の9年6月30日であって、その前日までの5カ年7カ月17日間は母校内に同窓の会が併立したと云う結果を生じたのである。 その後評議員に会長1名、副会長2名を設け、理事長を置いたのは大正14年6月24日の新任理事監事会議で評議員会提出の理事長を置く事を認めて互選の結果初代理事長に江口定条氏を押し常務理事を理事長指名に一任、次いで臨時役員会で常務理事5名の選定を承認し、更に会務分担委員22名を詮衡した。斯くて如水会は会館を擁して繁栄の一途を辿った。

母校出身者の社会的活動が漸時活発となるに連れ商法講習所開設当時の宿題であった通商貿易に依って国富を世界に求め、商業人養成に依って真摯な洋式商業人を商海へ送り出すと共に我国の実業教育機関が随所に次々設立興隆する等その他外交に経済に事業に産業に幾多国に尽した貢献は枚挙に暇なく遂に初志を実現隆盛に導くに至ったのであるが、支那事変に始まる大東亜戦そして太平洋作戦に次ぐ敗戦に依り、永年築き上げた成果を放擲した感に見えたのであるが茲に母校と如水会を一連とする一橋精神を持って全会員一致協力撓ゆまぬ努力が続けられ或は指導の立場に於て将来する我が国の富強振興を盛り立てて、戦前を凌ぐ殷盛に復し、海外発展に後進国育成に向って雄飛する現状に達したのである。

如水会会館

会員に供する倶楽部設置のことは永年持ち越された懸案であって学友会創立当時の会則中に一定の会合所を設立し新聞書籍又は諸娯楽の具を備え会員集会等の便に供し兼て同所内に寄宿の制を設け会員の宿泊に便する事と規定したが、明治25年7月10日の学友会臨時総会でこの会合所設置を実施しようとする問題を議題として居るが決議を見ないでその儘見送られている。

大正2年1月29日の衆議員当選者招待同窓会常議員会終了後の雑談で同窓会倶楽部新築論があり、その前後の京浜在住者、地方、海外の会員間で会合所設置を実施しようの声が高まり、常議員中数名の熱心者から本問題について臨時常議員会開催希望を同窓会幹事宛に申込みあったので大正2年4月1日倶楽部問題臨時常議員会を開催して倶楽部設立準備委員を設定以来同年9月までに倶楽部設立常置委員会4回、同委員会3回を開いて案を練り、倶楽部の設置は同窓者全員の事業であるが、倶楽部の性質上先ず其企業の出発点を同窓会員中有志の事業として開始する方至当であることに帰結し、3年1月23日会館建設を含む如水会設立発起人会で会館の建設を最終の目的としないこと、会館建設の主意は娯楽機関に便する為めではなく社会的活動の基盤とし、同窓者共同の利益増進を計って、会館設立後会館出入会員の多少を喜憂することなく積極的に遂行すること等常置委員の説明や発起人の希望があって建設基金20万円案を35万円とし内15万円を事業資金に充てることに可決した。

次いで如水会創立問題と併行して会計委員土地選定委員、建築委員を選出会館土地及建設調査委員を選んで運行を続け、調査委員15名に依て位置、交通の利、新設東京停車場を起点とした距離及敷地の広さを定めた二要件を標準として実施捜索した銀座、木挽町、有楽町等を含む8箇所選定の会館土地選定調査報告書に基いて、3年12月22日如水会臨時総会で四時間に亘って種々の角度から研究協議の結果神田一ツ橋通り町一番地所在地七百六十四坪の地所を会館敷地に採用決定したので、曽彌中条建築事務所(工学博士曽彌達蔵氏、工学士中条精一郎氏)に設計を依頼設計図二十三葉が出来上り、洋風三階建鉄筋コンクリート造建坪280余坪、二階240余坪、三階110余坪、地下室170余坪、実用面積878坪、7合8勺9才、工費114,318円34銭を以て合資会社清水組と工事請負契約を結び、5年5月19日会館建設地鎮祭を行い、5月20日から、曽彌中条建築事務所監督指示の元に工事に着手、7年2月23日会館大食堂で上棟式、8年6月2日午後3時会館竣工、大正8年6月30日正午料理室理髪室その他の内部設備、門塀、付属家屋庭園及会館敷地の拡張(拡張して1240坪となる)に併う変更の部分を除いて会館が落成したので、建築委員は清水組その他の工事請負人と接受の手続を了した。会館の総建設費は雑費を含めて34万4千150円であった。

8年7月4日から仮りに開館して会員の使用に供し、大正8年9月29日渋沢栄一翁(昭和6年4月本会名誉社員に推挙)を招待して開館式及晩餐会を開き、その他の関係者を招待会館を観覧に供した。

然るにこの美観を誇った会館は12年9月1日関東大震災の折の災火で内外壁等を残して灰燼と化したので、取り敢えず事務所を母校焼け残り建物へ次で会館地下室へ更に、丸ノ内ホテルへと仮事務所を置いて執務し、会館修復工事の完了まで13年11月1日から仮倶楽部を丸ノ内ホテル二階で開始した。 会館修復については会館建築委員を選出し、工学博士佐藤功一氏に依って1カ月調査の結果建造物は屋根等露出鉄骨の部分を除いて充分使用可能の査定を得、重ねて安藤清太郎氏に調査を依頼約20万円の修復費用の算定を得て更に会館設定場所を協議して会館焼跡と決定し佐藤工学博士の設計指導に基いて森田工務所の請負で15年1月7日着工してから298日目の大正15年10月30日落成した建築工費14万3千余円総費は22万8千800円であって、15年11月14日に開館式を挙げている。 主な改修箇所は矢橋亮吉氏寄贈の大理石を以って倶楽部室壁床柱全面を張り、球戯室階上に日本間2室の新設、地下室の拡張、大食堂天井の特殊照明及反響装置、玄関階段及屋根全部をコンクリートの不燃性に改造して補強工事を施して総建坪987坪と成った。 尚此際一ツ橋通り区劃整理のため会館前面基礎工事から4尺5寸を残して約2間半を道路に接収された。

昭和20年3月10日払暁より矢野記念館を残して全館を東部第百部隊使用する処となり20年12月29日会館は如水会に帰復したが更に21年5月20日矢野記念館、香邨寮を含めて全館は連合国軍の接収に依って会員の倶楽部使用は中止となり、事務所を一橋講堂裏母校官舎内に移して、仮事務所を設け、25年9月1日から応急処置として母校の一橋講堂敷地続きに別館(別記別館の項参照)を建設し、会館経営臨時委員会を設けて本館接収解除の暁を期して鋭意準備を進めて行った。 茲に会館を接収されてから7年目の昭和27年7月7日を以て特別調達局から矢野記念館香邨寮を含め本館接収解除の通達が7月6日本会に到着、7月15日より8月13日までの約1カ月間に亘り特別調達局大蔵省本会の三者立会賠償金査定の調査を了した。

この明け渡し立会の際には本館記念館香邨寮とも文字通りガランドウの建物の内外壁丈を収受する状態であった直ちに会館改修委員会を設け、一日も早く会員の要望に副うよう手許準備積立金に銀行の借入を合せ500万円を以って安藤組との請負契約により一部の応急補修を施して最少限の什器を整え、9月19日事務所を別館より本館地階に移し、食堂部を再開、9月20日7年振りに本館を再開館し、記念室と共に8室を一般会員に提供、引き続き第2回の補修工事を俟って10月10日17室を開放、更に政府補償金の下渡金により、先の借入金を銀行へ返済と共に第3期補修工事で本館主要箇所の補修工事を終ったのである。 次いで全館全室をフルに開放し戦前の状態に復して全会員の集合の源泉として再発足するため、28年5月1日から向う1カ年の予定で会館改修資金の募集の挙と相俟って、本館記念館の第4期改修工事に着手し、さきに駐留軍の手により本館と記念館との中間に増設の二階建二室を含め戦前の状態にまで修復成した。

香邨寮

本会創立20周年記念祭を機会に初代理事長江口定条氏(雅号香邨)退任を記念して、会員有志の醵出金を以て昭和11年10月6日本館裏南西隅に敷地を定めて地鎮祭、翌11月2日上棟式、昭和12年1月10日落成。 建築請負本沢佐幸氏、工費5,368円51、維持、修理費引当282円31、監督北村淑人氏、木造瓦葺平家建純日本風数寄屋造で築庭を設け、青竜、朱雀、白虎の日本間3室と記念室の玄武洋間の他宿直室、玄関、物置を備え、浴室を別棟に建造し、玄武の間を江口氏書斎に提供するなど清雅な建築方式を施していた。 この建物は昭和12年2月12日贈呈式を挙げ、醵金者代表田中都吉理事長より香邨寮の贈呈あり、江口氏より改めて、本会へ寄贈されたものであって、本家屋建坪30,861坪(浴場を含まない)渡り廊下11,666坪であった。 接収解除後昭和30年9月より安藤組の施行で改修工事に着手、改修面積30,861坪、建築面積11,610坪、工費144万円をもって同年12月18日増修復が完成した。おもな増築個所は物置を改造して隅田の間1室を造り、宿直室を改造して浴室浴槽を設け、増築して厨房、会食堂、宿直室とし、別館とともに会員の宿泊所に当てていたが、40年6月より集会専用とし、会員の利用に供した。

裸馬亭

本館庭園の東南隅に8角形鉄筋コンクリート造りビニタイル張り10坪の平家建洋風1室を昭和35年2月高松建設株式会社の設計工事請負により着工し、同年6月29日完成し落成式を挙げた。 亭名裸馬亭は元理事長菅礼之助氏在任中の功績に対する記念の意を表し、同氏の雅号を亭名とした。工費130万円。会員の圍碁・将棋室として愛用された。

矢野記念館

母校の国立移転を機に矢野二郎先生顕彰記念事業企画の議が興り、銅像建設剰余金で文部技師中根蕃氏その他の設計監督により清水組施工をもって昭和6年6月30日着工、翌7年1月16日開館式を挙げて居るこの記念館は母校の敷地81,360坪の土地に建てられ、如水会館と渡り廊下で接続し、鉄筋コンクリート造2階建、建坪56,680坪(本館50,680坪、渡り廊下6坪)延坪169,020坪(本館151,020坪、地下室付、渡り廊下18坪地下室付)総工費28,566円27銭であって、最初記念館を本会へ寄付する申し合わせであったが、これを母校へ寄付して、管理と使用を本会に一任することに認められたので、昭和6年6月19日母校へ寄付を申し込み、同8年4月12日文部省より寄付受納の認可あり、同時に使用の許可があった。 別館(一橋大学集会所)本会本館の接収解除までの応急処置として、一橋講堂敷地続き107,985坪の地所に集会所建設が決まり、昭和25年6月23日安藤組社長安藤清太郎氏と打ち合わせを重ね、安藤組と設計、建設工事の契約を結び同年7月1日着工以来安藤組社長、同工務課佐藤皓氏らの献身的努力により、予定の工期を短縮して、2カ月目の25年8月31日竣工、翌9月1日開館式と同時に会員の使用に供し、一部を事務所に当てた。 木造瓦葺平家建、建坪37,968坪、総工費備品雑件を含め1,348,142円、玄関を中央に引き込め両翼形築造とし、洋室5室を集会に当てることとした。 その後本館解除により、昭和29年7月21日改修して、洋室6室、浴室1、台所、和室1を宿直室に当て、会員専用宿泊所として利用された。 集会室(一橋大学集会室)本館と矢野記念館との中間の空地へ戦時中に駐留軍により建設の2階建であって、接収解除により母校の所有となり本会借用していた。一階鉄筋鉄骨造、2階木造、建坪16,660坪、延べ33,320坪。

如水会館の閉鎖

如水会館は会員数の増加に伴い狭隘化し、かつ老朽甚しく使用に耐えなくなった。そのうえ消防法に定める防災施設設置基準不適合のため、消防当局の強い勧告もあり、昭和54年2月の定例理事会において、早急に新会館改築に着手することを定め、旧会館は54年9月末をもって閉館60年の歴史を閉じた。なお、新会館改築期間中は千代田区大手町1-5-4安田火災ビルを如水会本部仮事務所に定め、10月に移転を完了した。

旧如水会館の解体

昭和55年6月26日付文部大臣から基本財産の一部処分の件(旧会館取こわし)が承認され、同7月解体工事着手、9月末に解体完了し、10月3日建築現場において地鎮祭を取り行ない、総工費約79億円地下2階、地上14階、延24,900m2余の新会館改築工事が着工された。 如水会館の改築 大正期の名建築のひとつとして謳われた旧如水会館は、大正8年竣工以後半世紀以上にわたり2万人を超える如水会員や一般の方々に愛され、親しまれてきたが、老朽化が甚だしく、また、時代の要請により改築されることになった。

昭和41年に改築計画の話が持ち上がって以来、昭和46年に国から用地の払下げを受け、幾多の計画案が検討されてきたが、昭和54年に計画案が一つに絞られ「会館改築本部」の設置と共に改築計画は具体的に動き出した。 改築計画推進のため、理事会の下に「会館改築委員会」―「会館改築本部」が置かれスタッフとして各種分科会(総括、研修文化、経営形態、建築構造、食堂経営、社交・娯楽、資金の各分科会)が置かれ、新会館に対するデザイン、機能等についての会員の要望の検討、調整、審議が精力的に行われ、コンセンサスを得ることに努めた。 改築計画は、都市空間の有効利用の観点から、如水会専用の単独ビルとせず、容積いっぱいに建てて残容積を貸ビルとした。 又、法的・経済的に許される限り高層化を図り、会館へのアプローチにゆとりと風格を持たせると共に、快適な街並空間の創造をねらって、14階建とした。 会館内部は、会員専用スペースであるラウンジ・バー、囲碁将棋コーナー、図書記念室の他に、会員以外の一般利用もできる結婚式場、写真場、ロビー、大中小宴会場、和室、レストラン、バー、コーヒーショップ、屋上ガーデンなどを含めたクラブハウス機能とオフィスビル機能との調和、防災施設など近代ビルとしての機能が完備している。

旧会館の解体 昭和55年7月
地鎮祭 昭和55年10月3日
工事期間 昭和55年10月~57年9月
落成披露 昭和57年9月29日
会館オープン 同 10月1日
新如水会館の概要
総工事費 80億1,500万円
設計監理 (総合)三菱地所 (外装デザイン)日本設計事務所
施工 (建築)鹿島建設、清水建設、安藤建設 J.V. (電気)近畿電気工事 (空調)新日本空調 (衛生)斎久工業 (エレベーター)三菱電機
構造 SRC造及びS造 地下2階地上14階塔屋1階
基礎 深礎杭
高さ 軒高 56.95m 最高高さ 61.75m
インテリア担当 三越、高島屋、大丸、松坂屋
食堂委託 東京会館
ビル管理 大光ビルサービス

会館の一部改造 昭和63年11月、14階北室改造立案のため14階問題小委員会(委員長小林通利常務理事・昭23門)が設置された。小委員会は都の建築容積率緩和を勘案して昭和57年新館オープン以来の懸案事項を検討、また年級連絡幹事へのアンケート調査、会員説明会等を行って改造プランを作成し、翌2年1月発足した会館改造委員会(委員長小林常務理事)に引き継いだ。改造工事は総工費約11億円をもって平成3年11月に完了、14階全面にわたる一橋クラブをはじめ、地下1階事務局室、3階旧事務局室跡の宴会室、会館裏駐車塔などが新設され、11月7日関係者を招いて竣工式を挙行した。

一部改造後面積
敷地面積 3,323㎡  (約1,006坪)
建築面積 2,322㎡  (約704坪)
延床面積 25,589㎡ (約7,754坪)

東京高等商業学校記念植樹の碑

母校キャンパスの一部として残された一橋講堂敷地は、平成5年7月、その管理を国立学校財務センターに移管、構内に残る記念植樹碑については、寄付者の志を後世に留める為如水会の手で管理する必要を生じた。会館管理委員会(委員長清峰太造常務理事・昭30経)は、平成6年4月、なお形態を留めている碑石(大正6年卒業以降四年度分)を回収、如水会ビル南面皇居側に移設保存することとした。

学術総合センタービルとの駐車場接続

平成11年12月に元一橋講堂跡地に学術総合センタービルが竣工、地下駐車場の相互利用を可能にする如水会ビルとの連絡路も完成した。

会館リニューアル

平成13年に予定された主テナント交代の機会を捉え、平成12年後半より諸リニューアル工事を開始した。

如水会々報

如水会々報は大正3年5月5日発行93号の同窓会雑誌雑録欄中に初めて「如水会記事」を掲げ爾後継続して、4年1月31日発行97号の同窓会雑誌末尾に「如水会々報」欄を設けて毎号続け、9年8月31日同窓会雑誌から離れて社団法人如水会名を以て渋沢翁染筆縦書の如水会々報を題字として、如水会々報第1号を創刊、平成12年7月現在843号を発行している。平成4年4月第744号より高級紙が使用され、オフセット印刷にするとともに、会員共通頁の活字を大きくし、行間をとる等大幅に刷新を施した。なお、平成10年6月号より、経費削減のため、発送方法を郵送から「クロネコメール便」に変更した。

如水会々員名簿

大正9年11月社団法人如水会社員録としてA6版第1号を発行してより毎年1回号を追うて発行して全会員へ無料頒布、昭和2年11月発行より社員の姓名配列のいろは順を五十音順配列に改め、昭和5年11月より従来の縦組を横組とし、昭和10年11月より社員名簿を会員名簿に改め、昭和18年11月(19年用)に異動会員だけの名簿として発行。19年より23年までの5年間は会員名簿の発行を休止し、24年11月に24年版を会員宿所録として縦組B5版を発行(この宿所録より以後の名簿は実費を以って希望会員へ頒布することに改められた)25年は休刊して26年11月に26年版をA5版横組で発行。爾後会員名簿を1年置き発刊とし、28年12月にB5版に改め五十音順名簿に勤務先別名簿を併用として28年版を発行してより隔年秋に発行を続け、45~46年版より勤務先別名簿を別冊として発行した。59~60年版発行後、電算化を機に大幅に改訂し、従来の総合50音順の配列を卒業年度順に改め、62年版より発行。個人情報保護のため、平成15年11月発行をもって中止している。

如水会勤務先別名簿

大正8年4月社員名簿の姉妹篇として始めて勤務先別社員名簿を36判ポケット型として創刊し実費50銭で頒布、第2回は昭和14年1月14年版勤務先別会員名簿85銭、次いで15年版を14年11月発行85銭18年11月第4回目の18年版を発行実費2円で頒布してから暫く発行を休止し、28年12月発行の会員名簿に勤務先別会員名簿を併冊として発行してからは爾後毎回会員名簿に併用45~46年版より2冊に分冊1組として発行。59~60年版までは会員在籍2名以上の勤務先を掲載したが、従来の総合50音順配列を業種別配列に改め、在籍1名の勤務先も掲載し62年版より発行。個人情報保護のため、平成15年11月発行をもって中止している。

◆詳細はこちら 如水会の歩み 母校の沿革(大学HP)