如水会について
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渋沢栄一翁と如水会
『如水会々報』表題の題字
一橋育ての親であり、また「如水会」名付け親である青淵渋沢栄一翁にご揮毫いただいたもの。これは縦書きであったが、戦時中用紙不足のため表紙の余白も活用する必要上昭和18年4月号からはこれを横書きに組みかえ、今日に至っている。
この題字は昭和25年6-7月号(第255号)以後色地に白抜きとなる。その色地は時々変えられてきている。近年新年号に限り金地白抜きとなっている。なお昭和43年から表紙にマーキュリーが入れられるようになった。(『如水会々報』500号より)
その後、平成21年にB5判となり、表紙には一橋大学や如水会関連の写真を入れ、色地は毎年変えるようになった。
渋沢栄一翁寿像
大正5年11月如水会主催による渋沢翁の喜寿記念会で、寿像の制作が決定し、翌年10月に一橋講堂で除幕式が行われた。その後、大正8年に如水会館の竣工とともに館内に安置した。最初に制作したものは、関東大震災で焼失、大正15年の会館修復の時に再制作したが、それも戦時中に鉄材供出の犠牲となってしまった。
現在のものは戦後、作者の堀進二氏の手もとに保存されていた原型により復原したものである。
一橋育ての親であり、また「如水会」名付け親である青淵渋沢栄一翁にご揮毫いただいたもの。これは縦書きであったが、戦時中用紙不足のため表紙の余白も活用する必要上昭和18年4月号からはこれを横書きに組みかえ、今日に至っている。
この題字は昭和25年6-7月号(第255号)以後色地に白抜きとなる。その色地は時々変えられてきている。近年新年号に限り金地白抜きとなっている。なお昭和43年から表紙にマーキュリーが入れられるようになった。(『如水会々報』500号より)
その後、平成21年にB5判となり、表紙には一橋大学や如水会関連の写真を入れ、色地は毎年変えるようになった。
渋沢栄一翁寿像
大正5年11月如水会主催による渋沢翁の喜寿記念会で、寿像の制作が決定し、翌年10月に一橋講堂で除幕式が行われた。その後、大正8年に如水会館の竣工とともに館内に安置した。最初に制作したものは、関東大震災で焼失、大正15年の会館修復の時に再制作したが、それも戦時中に鉄材供出の犠牲となってしまった。
現在のものは戦後、作者の堀進二氏の手もとに保存されていた原型により復原したものである。